一年ぶりに書こうと思いましたがやはりやめます。
Sundayclock
2018年2月18日日曜日
2017年2月12日日曜日
2016年1月11日月曜日
なんだかなぁ。
少し経ったので一言だけ。
どれだけ美化しても悪い事は悪いよね。と思います。
なんとなく昔は漫画やテレビや友達の影響で不良文化が少しかっこいいかもと思った事はありますし、なんだかそういう風潮もあるような気もする。
けど、不眠不休で子育てしながら赤ん坊がやっと寝て洗濯でもしようと思ったら道路でバイクがゆっくり集団暴走行為をしていたらちょっと許せないし、自分の子供に将来そういうのもありなんて絶対言わないな、と考える様になった。
自分の子供がまたは近しい人がなんだか変な棒で殴られたり洋服ビリビリにされたりしたらやっぱり嫌だ。
こんな事文字にしなくてもわかるけどわからない人が多いんだよね。
どうしてもエネルギーが余ってるとか世の中がなんだとか親がなんだとか学校がなんだとか色々と美化されやすいけど、悪い事は悪いし自分がされてどう思うかは明白。
根本はなんなんだろうと疑問が残る。
例えばバスケの試合に負けてバスケ部めちゃくちゃにしてやろうとか、バッシュ履かないで体育館上がってやろうとか(聞いた事あるな。)もうやだからルール変えてやる!とかって。
基本、思い通りにならない事の決着がつけられない能力の低さ。なんじゃないかなと思う。
イライラの始まりを取り除く為の手段はざっくりは二つ何となく三つ本当は一つ、
ざっくり、
1ルールをおぼえて努力を積みルール内でのイニシアチブを握る。
2それについて考えるのや行動全てをやめる(忘れる)。
何となくもう1つ、
3やっぱりラグビーにする。
でもイライラの始まりを本質的に取り除くには『1』しかないんじゃないかと思う。
能力の高い低いは自分もものすごくコンプレックスがあるし言われ方によっては腹が立ったりしてしまう気持ちもわかる、でも冷静に考えると物事のほとんどは努力によってある一定レベルまでは行けるような世界になっていますね。(努力ありき)
2015年に出会った吟遊詩人の言葉で
『頑張ってる頑張ってると言いながら一度もギターを握らない日がありました。』
という自戒の歌詞がありました。
0→1にしてやっと動き出す事が沢山あります、夢がある、やる気はある、いつも考えている。言うのは簡単。
目から入る情報を見た事があってなんとなく知っているのと本質を理解するのでは雲泥の差があります、出来れば後者になって行きたいものです。
現代の能力の優劣はどうしても貧富の差(精神的な意味も含む)に多少は左右されてしまうようです。
あの職業にはあの大学でその為には。。。。。という流れがあるようで。
ことの発端が貧困(精神的な弱さや想像力の欠如も含む)なら答えは簡単。
無理して贅沢を教えるからひねくれるんだよなぁ。
とスーパー貧乏だった僕は個人的に感じます。
誰かに悪意を向けやつあたりによって頑張っている人が馬鹿を見ない世の中になってほしいです。
『自分で決める。』
事がちゃんと出来ている人が大人だなと感じます。(責任関係や結果込み)
成人式を迎えてから15年経ってこんな風に感じたので記します。

どれだけ美化しても悪い事は悪いよね。と思います。
なんとなく昔は漫画やテレビや友達の影響で不良文化が少しかっこいいかもと思った事はありますし、なんだかそういう風潮もあるような気もする。
けど、不眠不休で子育てしながら赤ん坊がやっと寝て洗濯でもしようと思ったら道路でバイクがゆっくり集団暴走行為をしていたらちょっと許せないし、自分の子供に将来そういうのもありなんて絶対言わないな、と考える様になった。
自分の子供がまたは近しい人がなんだか変な棒で殴られたり洋服ビリビリにされたりしたらやっぱり嫌だ。
こんな事文字にしなくてもわかるけどわからない人が多いんだよね。
どうしてもエネルギーが余ってるとか世の中がなんだとか親がなんだとか学校がなんだとか色々と美化されやすいけど、悪い事は悪いし自分がされてどう思うかは明白。
根本はなんなんだろうと疑問が残る。
例えばバスケの試合に負けてバスケ部めちゃくちゃにしてやろうとか、バッシュ履かないで体育館上がってやろうとか(聞いた事あるな。)もうやだからルール変えてやる!とかって。
基本、思い通りにならない事の決着がつけられない能力の低さ。なんじゃないかなと思う。
イライラの始まりを取り除く為の手段はざっくりは二つ何となく三つ本当は一つ、
ざっくり、
1ルールをおぼえて努力を積みルール内でのイニシアチブを握る。
2それについて考えるのや行動全てをやめる(忘れる)。
何となくもう1つ、
3やっぱりラグビーにする。
でもイライラの始まりを本質的に取り除くには『1』しかないんじゃないかと思う。
能力の高い低いは自分もものすごくコンプレックスがあるし言われ方によっては腹が立ったりしてしまう気持ちもわかる、でも冷静に考えると物事のほとんどは努力によってある一定レベルまでは行けるような世界になっていますね。(努力ありき)
2015年に出会った吟遊詩人の言葉で
『頑張ってる頑張ってると言いながら一度もギターを握らない日がありました。』
という自戒の歌詞がありました。
0→1にしてやっと動き出す事が沢山あります、夢がある、やる気はある、いつも考えている。言うのは簡単。
目から入る情報を見た事があってなんとなく知っているのと本質を理解するのでは雲泥の差があります、出来れば後者になって行きたいものです。
現代の能力の優劣はどうしても貧富の差(精神的な意味も含む)に多少は左右されてしまうようです。
あの職業にはあの大学でその為には。。。。。という流れがあるようで。
ことの発端が貧困(精神的な弱さや想像力の欠如も含む)なら答えは簡単。
無理して贅沢を教えるからひねくれるんだよなぁ。
とスーパー貧乏だった僕は個人的に感じます。
誰かに悪意を向けやつあたりによって頑張っている人が馬鹿を見ない世の中になってほしいです。
『自分で決める。』
事がちゃんと出来ている人が大人だなと感じます。(責任関係や結果込み)
成人式を迎えてから15年経ってこんな風に感じたので記します。

2015年8月19日水曜日
Hope lies in blue shadow.
いつかの話しには続きがある。
色々と情報を集めて評論家の様に語り、ある一定の正解論を押し付ける。
その後に本当に大事な物があるけどそこまで辿り着く前に夜が更けてくる。
体裁が気になりきれいな形にまとめたがるんだけど、その不完全をまとめる行為こそが進むという推進力なんだなと思う。
なにが言いたいかと言うと物事は常に不完全である事が健全なんじゃないか言う事。
だからと言ってその不完全を無視する事はそれはそれで許されず、なんどもその行為を繰り返し振返って行く事で進んだ距離を感じるしか手段が見つからない。
それはやせ我慢や、綺麗事をどんどん言って自分と現実のギャップに悩み、それを現実に擦り合せて本当の事にしてしまう本質的な努力や強さが必要になってくる。
その努力や強さが俗に言う『かっこいい』なんじゃないでしょうか。
色々な情報も評論家も無視して、普通や一般などという線引きを無くし正解を自分で作る。
容姿や数値化されたそれでは計れない『かっこいい』を目指したい。
遠くの景色がきれいに見えてる時それ以外が影になってフレームに見える。
近くに目を凝らすと遠くの景色はかすみ、ただの背景に変わる。
見たい景色は自分で選べる。
2015年7月18日土曜日
まつり。
暗闇を怖いと思っていたのはいつぐらいまでだったろうか。
薄暗いなにかやぼんやりしたなにか耳障りな音や何かわからない圧力。
寝苦しく布団に包まったり自分以外の誰かを探したり。
目に見えないないなにかに恐れた。
遺伝子レベルの話しや自信のトラウマ等、幻想や思い込みの類いだという説。
あとは現世とあの世の不思議な話し。等。
最近の恐怖は姿を変えた、
未来や自然や過去や人間。
暗闇の中で打ち上げられる花火を見ようと大きな大きな建物を造る。
誰が作るとか誰と作るとか何で作るとか。
遠くで見る人と近くで見る人の水掛論。
最後はバケツひっくり返してバッシャン。
やっぱりやめるとか。
距離が遠く周りが暗い方が綺麗に見えるからと正体を知ってか知らずか価値を無理矢理つけます。
何処か遠くで光るそれ。
遠くから見る事に価値を付ける。
世の中には自分が持っている火種を2ミリほどの6本弦に束ねて伝えたり、
感じる不安や疑念、葛藤をユーモアに変えて伝えたり、
書店に並べて伝える人がいる。
どちらも何処かで火花を散らしている。
一生懸命火を消そうとする人と付ける人が同じ画面に居たりしますね。
今日は駅前でお祭りです。
2015年6月21日日曜日
父の日。
父は僕が14歳の時に他界しました、悲しいというよりはめまぐるしく変わる生活と母の毎日を目で追うのに精一杯だったような記憶が強いです。
僕は新太郎という名前を父にいただきました、新しい人生の一歩を僕に託したそうです。
僕が29歳の時に自分にも子供が生まれました。
14歳から29歳まではあまり父を意識する事無く母にかけた苦労に対し憎しみにも近い感情があったかと思います。
自分が成人し大人の世界を少しずつ知りながらその憎しみは強くなったように感じます。
29歳になった僕は息子が生まれる瞬間に立ち会う事が出来ました、
少し小さく生まれた息子が妻のお腹から生まれ、はじめての産声をあげ、
思っていたよりもずっとずっと小さな息子を抱きかかえた時、父もこういう気持ちになって僕にこの名前を付けたんだなと知りました。
こみ上げた思いは涙になり、喜びになり懺悔になり新たな気持ちが湧きました。
彼がなし得なかった事は僕達が思ってきた以上に悔しい事が沢山あったんではないかと感じました。
誰かへの疑念や悪意は自分の気持ちや行動で変えられるという事があると知っているつもりで生きていますが、僕が母や父に対するどちらかと言えば一般的ではない感情は僕のこれからの行動や心もちで感謝へかえる事は可能だと知りました。
どれだけ大変で人生においてマイナスな側面を持つ出来事があったとしても、次の瞬間、今、自分が幸せを感じていれば振返った全ての出来事のおかげだと思えるのです。
人生は諸行無常です。変わらないものはあって、変えられない事の方が普遍的です。
毎日は過ぎ、手に入る物ばかりではなく、比べれば喪失の方が多いかもしれません、心に怪我をする事もさせてしまう事も全て諸行無常です。
受け入れて行く事、流れて行く事が人生と受け止めています。
写真の話しを突然しますが、写真は光と影をコントロールする事が基本です。
環境に対し何が出来て、どれがベストかを探し行動します。
どんな場合でもハイライト(一番明るい場所、輝かせたい場所)を見つけシャドウ(一番影になっている暗い部分)からの綺麗なグラデーションを作ります。
どんな場合でもです、どんな場合でもハイライトは存在しシャドウは存在します。
物事に光を見いだすこの行為の考え方は僕の心を救ってくれています。
父の存在に光を当て綺麗なグラデーションを感じる事で、僕は父を理解しました。
今日は父の日だね、生まれて来れて嬉しいよ、なんとなく毎日幸せだ。
ほんとありがとね。
僕は新太郎という名前を父にいただきました、新しい人生の一歩を僕に託したそうです。
僕が29歳の時に自分にも子供が生まれました。
14歳から29歳まではあまり父を意識する事無く母にかけた苦労に対し憎しみにも近い感情があったかと思います。
自分が成人し大人の世界を少しずつ知りながらその憎しみは強くなったように感じます。
29歳になった僕は息子が生まれる瞬間に立ち会う事が出来ました、
少し小さく生まれた息子が妻のお腹から生まれ、はじめての産声をあげ、
思っていたよりもずっとずっと小さな息子を抱きかかえた時、父もこういう気持ちになって僕にこの名前を付けたんだなと知りました。
こみ上げた思いは涙になり、喜びになり懺悔になり新たな気持ちが湧きました。
彼がなし得なかった事は僕達が思ってきた以上に悔しい事が沢山あったんではないかと感じました。
誰かへの疑念や悪意は自分の気持ちや行動で変えられるという事があると知っているつもりで生きていますが、僕が母や父に対するどちらかと言えば一般的ではない感情は僕のこれからの行動や心もちで感謝へかえる事は可能だと知りました。
どれだけ大変で人生においてマイナスな側面を持つ出来事があったとしても、次の瞬間、今、自分が幸せを感じていれば振返った全ての出来事のおかげだと思えるのです。
人生は諸行無常です。変わらないものはあって、変えられない事の方が普遍的です。
毎日は過ぎ、手に入る物ばかりではなく、比べれば喪失の方が多いかもしれません、心に怪我をする事もさせてしまう事も全て諸行無常です。
受け入れて行く事、流れて行く事が人生と受け止めています。
写真の話しを突然しますが、写真は光と影をコントロールする事が基本です。
環境に対し何が出来て、どれがベストかを探し行動します。
どんな場合でもハイライト(一番明るい場所、輝かせたい場所)を見つけシャドウ(一番影になっている暗い部分)からの綺麗なグラデーションを作ります。
どんな場合でもです、どんな場合でもハイライトは存在しシャドウは存在します。
物事に光を見いだすこの行為の考え方は僕の心を救ってくれています。
父の存在に光を当て綺麗なグラデーションを感じる事で、僕は父を理解しました。
今日は父の日だね、生まれて来れて嬉しいよ、なんとなく毎日幸せだ。
ほんとありがとね。
2015年6月17日水曜日
Question to the justice.
新しいモノを作れると考える事は奢りの頂点である。(自営業34歳)
自戒に近い感覚で文章を打つ。
己が何者であるか知る事が毎日を生きる最重要であると思う日が増えました、
基本『何者で』あるかと考える事すら奢りで愚の骨頂である。と思う。
色々な自分を発信するツールが増え、情報はコントロールされているとは知ってか知らずか乗りこなしていると勘違いの螺旋に落ちる。
何かにならなければ椅子に座れないような世界が来ている、
モノや情報が溢れ『新しい』と言う名前の模造や不良品が溢れる。
その裏側には個人の正義が強く聳える。
正義の在り方は不安定で、力の行き先が跳ね返ればナイフを握るような危険を孕む。
正しい事を言う事は誰かを傷つける事。
誰かのレールやルール、ガイドラインに添った言葉に操られる。
秩序を守る事に笑顔や安心があってその中で優しさが生まれるのもわかる。
詰まる所レールの行き先が不明で先頭に迷いを生じている。
わけのわからん本を出版社という巨大な組織が容認したりするから世界に?が生まれる。
それを煽るメディアは巨大な正義に守られている。
感性等という終わった言葉で片付けたり、映画の見過ぎでドラマティックに逃げる事。
世が現実ではなく非現実に価値を見いだし過ぎだ。
自分の知識不足に袋をかぶせ蓋をして全てを無視して続ける。
世の中に新しい物等、ほとんど無い。
生きるのに必要な物はすでに足りている。
一つのコンテンツがひたすらに強くなり別の次元の何かと出会い、これまで満足のレベルに至らなかった物がそのレベルに達しようやくニーズに沿う。
これが『新しい』の正体だと考える。(発明や発見、宇宙やミクロの分野は忘れる。)
セレンディピティ論に近い物だと捉えています。
とにかくで来る事を、やりたい事を文句言わずにひたすら頑張りましょうという事、
現実に目を向けて一つ一つを埋めていく。
それしかないのに努力から現実から自分から逃げて楽しようとしてるよね。
という自戒。
何者かにならずに自分を磨く事をみんながしたら世界は輝く。
というこんなを書いている自分にも疑問ありありです。
自戒に近い感覚で文章を打つ。
己が何者であるか知る事が毎日を生きる最重要であると思う日が増えました、
基本『何者で』あるかと考える事すら奢りで愚の骨頂である。と思う。
色々な自分を発信するツールが増え、情報はコントロールされているとは知ってか知らずか乗りこなしていると勘違いの螺旋に落ちる。
何かにならなければ椅子に座れないような世界が来ている、
モノや情報が溢れ『新しい』と言う名前の模造や不良品が溢れる。
その裏側には個人の正義が強く聳える。
正義の在り方は不安定で、力の行き先が跳ね返ればナイフを握るような危険を孕む。
正しい事を言う事は誰かを傷つける事。
誰かのレールやルール、ガイドラインに添った言葉に操られる。
秩序を守る事に笑顔や安心があってその中で優しさが生まれるのもわかる。
詰まる所レールの行き先が不明で先頭に迷いを生じている。
わけのわからん本を出版社という巨大な組織が容認したりするから世界に?が生まれる。
それを煽るメディアは巨大な正義に守られている。
感性等という終わった言葉で片付けたり、映画の見過ぎでドラマティックに逃げる事。
世が現実ではなく非現実に価値を見いだし過ぎだ。
自分の知識不足に袋をかぶせ蓋をして全てを無視して続ける。
世の中に新しい物等、ほとんど無い。
生きるのに必要な物はすでに足りている。
一つのコンテンツがひたすらに強くなり別の次元の何かと出会い、これまで満足のレベルに至らなかった物がそのレベルに達しようやくニーズに沿う。
これが『新しい』の正体だと考える。(発明や発見、宇宙やミクロの分野は忘れる。)
セレンディピティ論に近い物だと捉えています。
とにかくで来る事を、やりたい事を文句言わずにひたすら頑張りましょうという事、
現実に目を向けて一つ一つを埋めていく。
それしかないのに努力から現実から自分から逃げて楽しようとしてるよね。
という自戒。
何者かにならずに自分を磨く事をみんながしたら世界は輝く。
というこんなを書いている自分にも疑問ありありです。
2015年4月14日火曜日
Everything Including Myself is Constantly Changing.
成長と学習と強さと弱さの表裏。
外側から見る世界、内側から見る世界。
自分の成長(暫定)を通し酷く悩み自身に対しどう向き合うべきかの岐路を幾度も経験した。その度に振り返ってみればそれは成長(暫定)だったんだなと無理矢理飲み込んできたような気がする。というよりそうだ。と断定する。
幼少から、少年から青年へ成熟した大人へと変わって行く事を広義で成長と指す。
ゲーム世界のジョブチェンジのようなコレクショナリズムを刺激するような単純な物ではなく、僕個人は、その成長(暫定)の中で確実に何かを失っている事を感じ振り返る。
その喪失感はなんとなくこの場所には何かあったような気がするんだよな。
と駅前の何かの跡地を通りすぎるような、記憶を操作される悲しい映画のエンディングを傍観している自分に違和感を感じそれを思い出そうとすればするほど失った事に気が付き傷とは違う何かから痛みを感じる、そしてそこに辿り着いた自分を否定とは違う冷たいよりも少し生温い感情で見る。その瞬間に同じだけど違う道を歩いていたような自分が生まれる錯覚(暫定)を起こす。
思い出の掘り起こしや記憶力とは違う何か。
大人になる事=成長なら、それは学ぶの延長上にある物なんでしょうか?
学びの先にあるものは出来る事を知り、出来ない事を証明する、或る種の『諦め』それに
辿り着くことに見えてしまっています。
成功体験、快楽により人は『慣れ』、しがみついても無くなってしまう辛さから『逃げ』自分を守るため、明日へ進む為『忘れ』る。
喪失から得るもので強くなっていく人間の仕組みは弱さを隠す為の強さの鎧を身につける事。失った物の価値を忘れるように進化したそれは、喪失の部分知った時、鎧を身に着けた自分を鏡で見る事になる、その姿を美しく変える事に価値を見いだす。
強いとは弱いと同義語。
逆『裸の王様』論。
弱いと強いは同義語。
自分が諦めて進んできてしまった事をしっかり誰かに伝え報せ譲り助け喪失してしまった『其れ』に意味を持たせ価値を付けて行く事、過去を光らせ今を愛し、自信が光る事で砕けて形を変えても明日を輝かせる事。
今はこれが成長(暫定)と考えている。
という独り言。
2015年3月20日金曜日
隨<
テレビで世界で色んな場所で怖い事や悪意が広がって悲しい。それを見て誰もが普通はそうでしょと思う様に受け取らない受け取れない人が居てそれが広まって薄まって色が変わって濃くなって黒くなっていく。何処か遠くの誰かの事ではなくて目の前でも理解不能な事や大きななにかがはじける事がある、諸行無常の鐘が響き渡る。バッドエンドの物語を作り誰かに見せる世界がある。
そのもの語りに芸術や何かの警鐘意外に意味があるか?どれだけ綺麗に言っても金臭さは消えない。これだけ受け取れないグローブが増えていて、バットエンドで満足し自尊する事に正義は無いと思う。
素敵なエンディングを目指して生きれば良いと思う。
素敵なエンディングを迎える為の物語を見たい。
温かいひかりに包まれる素敵なエンディングを見たい。
自分がもし作れるなら見せたい。
そのもの語りに芸術や何かの警鐘意外に意味があるか?どれだけ綺麗に言っても金臭さは消えない。これだけ受け取れないグローブが増えていて、バットエンドで満足し自尊する事に正義は無いと思う。
素敵なエンディングを目指して生きれば良いと思う。
素敵なエンディングを迎える為の物語を見たい。
温かいひかりに包まれる素敵なエンディングを見たい。
自分がもし作れるなら見せたい。
2015年3月19日木曜日
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